ガヤガヤと賑やかな場所でも話し相手の声はハッキリと聞こえる。カクテルパーティー効果とか言うんだっけか。
つまりこの居酒屋の席でも私は目の前に座ってる人の声がちゃんと聞こえるわけだ。
忘れもしない。
石神先生が、ビールのジョッキを掲げて眦を下げる。あの子の目とそっくりだと思った。
それは、見ることの叶わなかった光景だった。

「よろしくな、千空のこと」

何をそんな、本当は先生がいてくれたら、あの子は私がいなくても――夢の中だというのに素直な返事が一つも出てこないことに愕然とした。


心臓が激しく脈を打っている。堪らず起き上がると、少し離れた所に何かが丸まっているのが見えた。人影のようだ。
眉間に力を入れて、まだ暗闇に慣れない目を凝らす。
千空だった。
私といる時の千空は寝てることが多い気がする。安心してるのか疲れきっているのか。たまにはお喋りしてくれないとちょっと寂しいなんて、らしくないことを思った。





「ええー!?ジーマーで何もないの?」

千空の誕生日以来、微妙に変わった私たちの雰囲気を敏感に察知したのは勿論あさぎりゲンで、彼と二人になるとどうにもそういう方向に話を持っていかれてしまう。

「いやぁ、あっても困るでしょ」

付き合っているというどこか浮わついた言葉はどうにもしっくり来なくて、ただ千空の気持ちを私が受け入れましたというか、その上で日々を過ごしているというだけだ。
好きだとお互い口にした覚えはない。あの日以来これといった出来事も特段無いまま冬が終わり、船造りの作業が本格化していった。

「どう見ても恋愛がモチベーションになるってタイプじゃないよねー千空ちゃん」

ゲンは面白くなさそうに口を尖らせている。
逆に、恋にうつつを抜かすような人だったら今まで私が見てきた千空は一体何だったんだという話だ。
でも、じゃあ、あの日キスしてきたというのは千空なりにケジメをつけたくて、その先の未来を見定めつつ一線を越えて来たということだ。

「名前ちゃん、なんか顔が赤いけど?」
「いや。これは思い出し……照れ、かな」

表面上はあまり変わらない。変わったとしたらそれは偏に私の心境だろう。普段通り過ごしているつもりでも、どこかで滲み出てしまうのだろう。傍からもそれが分かりやすく見えているとしたら、それなりに恥ずかしいものである。

「あーそういうアレね、ご馳走さま」

ゲンときたら自分から聞いてきたくせに、あからさまにもう結構ですという態度だ。

「愚痴が聞きたかった?」
「いやいやそんなことないよ、仲良さそーで安心しちゃった」

そこでジーマーで、と付け加えられても全然説得力がない。

「……ま、俺は言葉にするのも悪くないと思うけどね」
「ゲンは……そうだろうね」
「言葉ってなにも別に言われた側だけのものじゃないのよね〜。むしろ言った本人の方が案外その気になれちゃったりして?」

試してみる価値はあるんじゃない?と、ゲンは笑っていた。
いいように操られている気がする。





窓から入ってくる星明かりで、かなり目が慣れてきた。
千空の肩が呼吸に合わせて動いているのも分かる。これは、度々見る光景だ。
遅くまであちこちを動き回っている千空は、時たまこうしてここにやってくる。入ってきたと思ったらソッコーで寝てしまうのだけど。

「せんく……」

起こすつもりはない。二人だけど一人。そんな空間に放たれた言葉は、彼に届くことなく溶けていく。
ゲンに言われた事を思い出していた。

「聞こえてなくて良いから、言わせて」

ただ相手に伝えるだけじゃない言葉の意味と、先程見た夢について考えていた。

「千空は、千空の目は、先生にそっくりだ」

血は繋がってないのだと聞いた。だけど千空と先生は、紛れもなく親子だった。
脇目もふらずに自分の興味が赴くままに突っ走る。だけど、ふと周囲を見渡す視線に宿るのは、慈しみそのものだ。
この世界を愛している。そういう目だ。
その目に自分も映っていたのだと知った時、たまらなく嬉しかった。照れくさくてとても言えなかったけど。

「初めて出会ったときから千空はずっと宇宙を見てて、私は君の目に映るそれを見るのが好きだった」

私にとっては、千空の瞳が宇宙そのものだった。

「これからも、できるならずっとそうしていたい」

しかし、私はいつまで彼についていけるのか、いつまで許してもらえるのか、分からなかった。いつか私が千空の重荷になる日が来たら。きっと、そういう不安が夢になって出てきたのだ。

「だけどもし私が君にとっての足枷になってしまったら、その時は、」

その時はどうしよう。
千空に委ねるのは酷だ。彼でないなら自分しかいない。千空より多少長く生きてきただけの私が、果たして彼に正しい道を示してあげられるのだろうか。

「それ以上は聞かねー」
「……あれ、起きてたの。いつから?」

その先の言葉に詰まっていると、夢の中にいるはずの千空の声が聞こえた。
なるべく小声を心がけたつもりだったけど、やはり気になって目が覚めてしまったのだろうか。

「テメーが起き上がったくらいから」
「それ最初から……」
「で、クソ長ぇポエム垂れ流して満足したかよ」

私と同じように体を起こした千空の声色は、もしかしなくてもご機嫌ナナメだった。
しかしながら人の気持ちをクソ長ぇとは失礼な少年である。せめてクソ重てぇくらいにしといて欲しかった。
それでも、全部聞かれていた以上言い訳はできない。

「千空、あの……」

ちょっと弱気になりました、ゴメン。君のせいではないのだけれど。
千空は座り込んだまま動けない私の側に容赦なく近付いてきて、真正面にしゃがみこんだ。こういう時は横に来てくれた方が気持ちの負担が少ないと聞く。千空の頭の中には、この手のテクニックがまるで入っていない。そういうのはメンタリストの仕事だといったところか。

「どんだけ振り回されようがしぶとくしがみついてるのがテメーの特技だろうが」
「えっ、そうかな」

千空って私のことそんなふうに思ってたんだ。新発見である。
私の返事が気にくわなかったのか、千空はキッとこちらを睨んだまま手を伸ばしてきた。背中に回された手に押されて、彼の胸にしなだれかかる体勢になる。つまり、端的に言うと抱きしめられている、千空に。

「音を上げるにはまだはえーよ。だから……諦めんな」

千空はまるであやすように私の背中を二度三度叩いて、体を離した。
互いの顔を目に映す。千空の瞳には変わらず果てのない宇宙が広がっている。吸い込まれそうだ。

唇が重なる寸前で、千空は動きを止めた。

「あーー、やっぱ止めとくか」

そう言いながら彼は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
何かまずかっただろうか。まさか、顔がヘンだった?

「なんで」
「なんでもねーよ」
「なんでもなくないでしょ。知りたい」

そう、ただ知りたいのだ。
知りたいという欲求には勝てない。彼もよく知っているはずだ。

「……なんでって、こう、勢いでするモンでもねーだろうが」

どの口がそんなことを。あの日、完全なる不意打ちで仕掛けてきたくせに。
……なんて言ってやりたいところだが、千空の言わんとしていることは、なんとなく分かる。
千空は意外とまだまだ純情少年だった。新発見その2である。

「千空ごめん」

千空がやろうとしていることは、とても彼一人で成し遂げられるものではない。もうついていけませんなんて、それこそ千空が恐れているに違いない言葉だ。だって、そんなふうに言われてしまったら、なんだかんだで優しい彼にはもう引き止める術がない。
私が不安にさせた。だというのに、彼はそんな気持ちを剥き出しにして私にぶつけてはならないと踏ん張っているのである。

「ごめんね」

今度は私から。再び千空に身を預けた。

「なっ、オイ……!」

そのまま全体重をかけ続けていると、千空はとうとう観念したのかそのままゆっくりと倒れていった。

「いきなり押し倒すとか痴女かテメー」
「なんとでも言えば」

どくどくと忙しなく音がする。
千空を押し倒してしまった私は彼の余裕のない顔を見下ろし……なんてことはなく、彼の心臓の真上にぴたりと耳をくっつけている。なので彼の顔は全く見えないが、きっと虚空を見つめているような表情でぼんやりと呆れているに違いない。

「脈測ってんじゃねえだろうな」
「まさか。千空じゃあるまいし」

正確に秒を数えられる千空ならやりかねない。
そろそろ苦しいかなと思いながら体をずらして、千空の真横に寝転んだ。気持ちはともかく体が重いと言われたら少し傷付いてしまう。

「……名前」
「ん、なに」
「なんでもねーよ」
「千空それ一日一回までにしよ。だから今日はもうなんでもねーはナシ!」

私の素早さと強引さに開いた口が塞がらないらしい千空を「さあ言った言った!」と更にせっつく。
しかし、ふと表情を緩めた彼は次の瞬間には不敵に笑っていた。

「ほんとにねーよ、用なんか。ただ呼びたかっただけだ」

形勢逆転。顔だけじゃなく体ごとこっちを向いた千空が再び私の背中に腕を回した。

「……生意気」
「ああ、だから今日のところはもう黙って抱かれとけっつうこった」

やれやれ。一体どこでそんな言葉を覚えたのやら。
最後の抵抗として、穴があくほど見つめてやると「さっさと目を閉じやがれ」とムスッとした声が返って来た。



2020.4.12 Who says we can't?


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